Helixes Inc.の情報を発信していくメディア「Helixes.log」を始めました。
我々のことを知ってる人も知らなかった人にも、Helixesがどんなことを考えどんな人がいるのかを伝えていくことを目的としており、まずはHelixesの成り立ちとこれからについてお届けします。
ONE OK ROCK、Suchmos、米津玄師などアーティストのMVや、企業PRにおけるクリエイティブを制作してきたビジュアルプロダクション・maxillaが結成されたのは2009年の1月。
現在はHelixes Inc.内の事業部となり、クリエイティブエージェンシーとしてブランドの戦略設計なども行うmaxillaですが、事の発端は「no name magazine」という自主制作の音楽ZINEにありました。
音楽愛だけで集まった大学生は、どんな道のりでここまでたどり着いたのか。ボードメンバーの志村龍之介、松野貴仁、八木光平の3名が、メンバーと旧知の仲でもある編集者・奥村さんと一緒に振り返りました。
Interview & text by Kentaro Okumura
単純に、好きなことで食べていきたいだけだった

ーまず、それぞれの社内での役割を教えてください。
志村龍之介(以下、志村) 僕は「Helixes Inc.」の代表で、会社の全体を管理しています。個人の職能としてはもともとムービーディレクターで、今はクリエイティブディレクターとしてキャンペーンの戦略立案からクリエイティブ統括まで幅広く見ています。
松野貴仁(以下、松野) ディレクターグループをまとめる役職で、自身としてもディレクターとして手を動かしています。
八木光平(以下、八木) 僕は主に新規事業開発を進めています。映像や広告制作の場ではアカウントプロデューサーとして動いています。

ーこの3人がmaxillaを立ち上げた、という認識であっていますか?
志村 いえ、町田くんという今は独立して映像制作をしている彼を含めた4人でです。

ーその4人が集うまでのいきさつを教えてください。
松野 大学生のときに、八木がハードコアやパンクといったラウドミュージックを取り上げる「no name magazine」というZINEを作っていて、僕がやっていたバンド(Before My Life Fails)にインタビューしたいとメールしてきたんです。
ー取材する側と、される側だったんですね。
八木 はい。僕と松野はそれで連絡を取ったのが始まりで、たまに東京で遊んだりするようになって。松野がデザインができて、バンドのアートワークを作ったりしてたのを知っていたから、僕のZINEのデザインを手伝ってくれへん?って誘いました。
松野 見栄えを良くしたいっていう話で。同じ時期に映像をやっていたマッチ(町田)と僕が知り合って、そのちょっと前には龍之介(志村)と大学で友達になっていました。
志村 俺と松野は大学の先輩後輩なんです。
松野 マッチを龍之介と会わせようとして3人で遊んだ頃くらいに、八木からZINEのデザインの話があって、じゃあみんなでやろうぜってなったんだよね。​​​​​​​
maxillaがデザインした「no name magazine」
ーZINEを作っていた八木さん、バンドマンの松野さん、映像を作っていた町田さん、とそれぞれ異なるジャンルのメンバーが集まったと。
松野 龍之介は写真とグラフィックやってたよね。あと変なサークルに入っていて勧誘された(笑)。
志村 「広告研究会」っていうサークルね。部室で溜まってよく先輩と酒飲んだりしてたんです。あとミスコンの写真とか撮ったりしてました。
八木 撮ってたな〜。全然ミスコンぽくない、陰影がやたらパキッとなってるやつ(笑)。
松野 志村との一番最初の出会いもウケるんだけど、2006年くらいに「Taste Of Chaos」(TOC)っていう、海外のスクリーモバンドとかが来るフェスに、僕のバンドがネット投票で出演する権利を得て。そしたら突然、まだ会ったこともなかった志村から、mixiで「TOCでるんすか?!いいすね!」ってメッセージがきたんです。「俺、そういう音楽好きだから、今度ライブ行っていい?」って。
志村 松野と会ったときに、俺もグラフィックや写真をやってるから、何か一緒に作ろうって話をして。つまり同時期に何かをやろうとしていたそれぞれが出会っていった。集まるべくして集まった感はあるよね。
松野 それでまずZINEを作ったと。
志村 7号にはmaxillaの撮ったMVなどを紹介するページがあったり、松野や俺が作ったグラフィックが載っています。

スタートしたばかりのmaxillaを紹介するページ

ーZINEをベースにする一方で、チームとして映像を作り始めてもいた。
志村 マッチがバンタンの映像科を専攻していて、仲間のバンドのライブ映像を撮っていたんです。このことが今のmaxillaの映像事業の下地になっていますね。彼に続く形で、それぞれが映像を作りながら独学で覚えていきました。同時に俺は3Dを、松野はモーショングラフィックスを自分で勉強していました。

ーそれで、徐々に映像の比重が上がっていった? 
八木 もともと、時代の変化に合わせてZINEを紙からWEBに移行しようとしていて。でも僕は留年が決まったり、家庭の事情なんかもあって、一旦maxillaを抜けることになったんです。その間、maxillaには色んな人が出たり入ったりしていました。
松野 今後は映像が主流になるだろうって話をよくしていたこともあって、制作の幅を広げていきました。徐々にお仕事もいただけるようになってきたんですが、最初はマジで自転車操業だったなー。
志村 フリーランスの集まりだったしね。最初は俺の口座に一度お金を集めて、皆に配分していました。
松野 自分たちのことを「映像プロダクション」とは思っていなくて、単純に、好きなことでメシが食えたらいいよねって話からスタートした感じだよね。
志村 根底の思いとしては今もそう。特にあの頃は作りたいって気持ちのほうが先行してたから、お金を出してくれるんだったらその金額でやるって感じだった。20代前半だったし、あまり何も考えてなかったです。
2010年「August Burns Red」初来日時のメンバーと志村
MVで培ったクリエイティビティを広告の領域へ

ーそうすると、初期の仕事はMVがほとんどだった?
松野 そうですね。ZINEもあったし、特に俺はバンドをやってたから、バンド仲間に頼まれてライブやMVを撮ることが多かった。
八木 それがCrossfaithcoldrainSiMみたいな、いわゆる「ラウドロック」と呼ばれるバンド。ラウドロックやハードコアって、それまで一部のオタクしか聴かないような音楽だったのに、彼らの登場で一般的にも聴かれるようになったんです。maxillaにとってこれはとても重要なことでした。
実際、Crossfaithのツテで誘われたONE OK ROCKの「The Beginning」のMVをきっかけに、広告の仕事もちょっとずつくるようになったし。maxillaの初期に撮ったバンドが人気になっていくことで、僕らも一緒に上がっていけた気がします。彼らがいなかったら、今はないかもしれない。
松野 それと、当時人気に火がつきはじめたラウドロックバンドのビデオを撮っているのがだいたいmaxillaだったから、その手の音楽好きの間で「maxillaが作ったらかっこいい」みたいな風潮があった気がする。
その流れに乗って、同じ1年の間にONE OK ROCKやマキシマムザホルモンのような有名なアーティストのMVも作れて、賞まで届くことができた(※2013年にONE OK ROCK『The Beginning』のMVが『SPACE SHOWER TV MUSIC VIDEO AWARDS』に選ばれた)。あれを起点に名前が知られ始めたんだと思う。

maxilla初期のShowreel(2012年)

ーラウドロックやハードコアが市民権を得ていく中で、その映像のイメージを担えたことが重要だったと。maxillaが好きなバンドのMVを作れる喜びで突き進んできたところから、広告の仕事もしっかりやっていきたいという意識は何をきっかけに芽生えたのでしょう。
八木 僕がmaxillaに戻るタイミングちゃう?
志村 そうだね。もっとちゃんとしたいから、光平(八木)に戻ってほしいと声をかけたはず。
八木 僕は大学卒業後にネット広告の会社で営業として勤めていたんですが、たまにメンバーに会って遊んだりする中で、内部の状況を聞いていたんです。そのときmaxillaの社員は4人ほどで、(ディレクターである)松野も制作やPMをしていた。とにかく「営業する人が欲しいんだ」って言われた気がする。そのときは全くクリエイティブの知見はなかったけど、僕もやっぱり戻りたいなって気持ちはあって。
志村 クリエイティブを生業にするならMVばっかりじゃなくて、もっと広告仕事やいろんなことをやりたいっていう思いがあったんだと思う。
松野 でもあの頃は人も足りていないし、もうムリ!って感じだったからね。

当時のオフィス(2014年頃)

ー再び八木さんが戻ったタイミングから、広告のお仕事もガンガンとっていこうという流れになった。でも、それまで営業をしてこなかったチームですよね。
八木 だから営業って言っても、みんな何をどうすればいいのかわからない。ただはっきり覚えてるのは、戻って一ヶ月とかで龍之介が社内メールで僕に「もっと営業してくれないと困る」みたいな内容を送ってきたんですよね。それもみんな壁向きに並んでるようなオフィスで、僕の背面に座ってたのに。
志村 ごめん、全然覚えてない(笑)。
松野 あったあった。龍之介は会社のこれからのことを考えて、思い立ってメールしたんじゃない?
八木 僕としては実際戻ってみたら、みんなすでに抱えている案件で死にかけていて、うまくまわすことの方が先決。むしろ営業したらアカンやろって感じだった。龍之介は勢いが先行してたんだろうね。
松野 とにかくどうにかせな!って。
八木 この件でも分かるけど、ぶっちゃけ今と人間的に一番変わったのは龍之介。数回会った人の耳をちぎろうとしたり、当時はほんとに尖ったナイフって感じで、人付き合いとか人との距離感がめちゃくちゃ(笑)。

ーでも、今は丸くなった?
八木 丸くなった。
志村 みなさんのおかげで。
八木 まぁとはいえ、営業についてそんな風に言われたからには僕の方も、だったらやったるわ!って(笑)、全然知らない広告業界の人たちが集まる交流会や飲み会とかに片っ端から顔を出しまくるようになって。それこそTHE・営業でした。
思い出深いのは、松野と一緒にやった、MAN WITH A MISSIONと東芝のタイアップ案件です。戻って以降、初めて自分の営業努力が報われたような仕事で、この案件に関わった方たちとは今でもお付き合いをして頂いています。

MAN WITH A MISSIONのメンバーと松野

ーそれは会社としての転機にもなったのでは。
八木 そうですね。実際のところあのタイミングで龍之介にたきつけられてなかったら、こうはなってなかったのかもしれないです。
それ以降、社内メンバーとしても僕らと異なる能力を持った人が入ってきて、やることも広がっていきました。WEBやイラスト、プロジェクションマッピング、センシングの技術を使ったインスタレーションなど、それぞれ違う力を持った人が入ることで、仕事に幅が出ました。
松野 プロジェクションマッピングが世の中的にも人気になってきた頃には「EXMR」という、様々な展示映像をコントロールする統合アプリケーションを作ったりもしました。
八木 このサービスは案件の中で使う程度でビジネスには至らなかったのですが、この頃から別の事業やビジネスアイデアを出すようになっていきました。今から約6年前ですね。

「EXMR」のプロモーションビデオ

瞬間を生きるのではなく、10年後をイメージして進む

ーその受託だけにとどまらない姿勢が、様々なIPとストリートの角度からコラボレーションするブランド「名/NA」(2017年ローンチ)や、マンガのレビューアプリ「comicspace」(2018年ローンチ)のような事業につながっているわけですね。
八木 広告の案件が増える一方で今度は「このままでいいのか?」という意識が芽生えてきたんです。歳を重ねれば体力やセンスも若い時と同じようにはいかないだろうし、制作できる数は絶対に減る。だから今から自分たちが欲しいと思えるものを考えて、作って、事業にしていかないといけないと。
志村 社内には「Step Forward」っていう、新規事業をコンペで募集する取り組みがあって、今そこから生まれたアイデアのいくつかが動き始めています。
一番重要なのは、maxillaで培ったクリエイティブやコミュニケーションのためのノウハウは、どんな事業にも活かせるということ。うまく仕組み化して何でもやってみようと思っています。

「comicspace」は関連会社の事業へとスピンオフさせた

ーそして2018年にはmaxillaを含む各部署を集約する形で、「Helixes inc.」を設立されました。この背景にはどんな課題があったのですか?
八木 2015年ぐらいから人は増え始めたんですが、鈴木と南浦は、僕の大学の同級生だし、神谷も南浦の元同僚。平嶋、山口も志村の高校や大学の時からの友人と、これまでは完全にリファラルというか縁故での入社がほとんどでした。
でも、渡邊、村田というインターンを経た新卒組が2018年に入社してくれたところから、段々と空気感も変わってきたんですよね。

2018年時の集合写真

志村 新卒が入ったりメンバーも増えてきた中で、新規事業を始めようとするときに、みんなの目線をどう合わせればいいのか、っていう話になったんです。
それまでの “maxillaらしさ”って「自分で感じて!」という、なんだかぼんやりとしたものだったんだけど(笑)、もっとしっかり企業理念を定義するべきだということになり、母体となる会社(Helixes)を作りました。それにあわせて、maxillaのスタンスももう一度考え直したんです。結果的に、会社が見据えている方向や必要な人材、各社員の立ち位置が明確になりました。

ー仕事の内容を見ても、プロダクトや作品単体からトータルでクリエイティブを設計していく形へと、その視点が広くなってきたように感じます。
志村 2019年に請け負った、adidas「OZWEEGO」の件が良い事例だと思います。
僕らが担当したのは、ブランドとともにメディアを超えて戦略を立てるIMCプランニングと、そこで生まれたコンセプトをもとにしたタグライン「変わりつづけて何が悪い(POWERED BY THE PAST)」やクリエイティブの開発、クリエイターを起用したビジュアル制作、アトモス表参道店でのローンチイベント、Suchmosとのコラボイベントの企画・運営など。
とても広範囲でしたが、ひとつひとつのクリエイティブを緻密に組み立てることができました。

「OZWEEGO」のキービジュアル

八木 これは今年Helixes内に新設したエージェンシーグループが中心となった仕事で、この部署ではプロダクション業務よりも上位の階層からクライアントに関わります。
各ブランドの特性に応じたコミュニケーションのあるべき姿を策定し、メディアを横断した戦略を設計、そこから導き出したクリエイティブを制作する。ブランド理解の高い状態で作られたクリエイティブは、より強い力を持つはずだと思っています。
志村 モノづくりからスタートした僕たちだからこそ持てる視点を、本来代理店が行っているような戦略設計の範囲でも活かすねらいです。
それに、制作における工程を短縮すればコミュニケーションコストも低くなるし、クライアントとしても予算やスケジュールの圧縮にもつながる。結果、クリエイティブの質が向上する。お互いにとっても、プロダクトそのものやユーザーにとっても良いことだと思います。

ー目先だけを見るのではなく、長いスパンで物事を捉えるようになってきていますね。組織づくりにしても、仕事への姿勢にしても。
八木 そうですね。自社ブランドやサービスを始める前は、会社の舵を誰かが握ってるようで、実は誰も握っていなかったんです。だからみんな先行きに対して漠然と同じような不安があったけど、どうしたらいいかも考えられていなかった。
志村 今は事業にしても、人材や組織づくりにしても、長期的な目線を元に今なにをやるべきかを考えないといけないと常に意識しています。10年後どんなふうになっていたくて、だから、どういうふうに進むべきなのかって。これまでは瞬間的に生きてたんです。最大瞬間風速をどれだけ出せるか、みたいな勝負(笑)。それが今は複数の事業をもつチームになっているからね。
松野 新卒で入社した子に「この会社ってどこを向いてるんですか?」って言われてたから、リアルに(笑)。これまではその問いにちゃんと答えられなかったのがよくなかったと思う。もともとmaxillaはモノを作る人が集まってブランドが広がっていった背景があるから、新しい事業をやるときもモノ作りへの感性をおざなりにせず、作っている側の感覚もアップデートしていきたいですね。
志村 船は船長だけじゃなくて、いろんな役割の人がいるから前に進むってことを意識して組織づくりをしていかなきゃいけない。帆を張る人は何を、給仕の人は何をすべきかって。制作とはまた別のクリエイティビティの話だけど、それを考えるのもおもしろいなって思っています。

ー最後に、この先のビジョンを教えてください。
志村 Helixesのブランドプロミスとして設定している「Go Forward」の一言に尽きます。よく話すのは、「停滞することはゆるやかな死」ということ。
会社名のHelixは「螺旋」という意味ですが、螺旋のように自分たちのクリエイティブのアップデートを続け、ブランドや社会を先へ進められるような事業を提供できる会社でありたいです。Helixesと関われば必ず前に進むよね、って。
今日振り返ってみて改めて分かったように、僕らもこれまで一歩一歩前に進んできた積み重ねで今があるから、その歩みを止めずにいたいですね。

2019年末の集合写真

Back to Top