Helixes Inc.のメンバーやそのマインドについて発信していく「Helixes.log」。
今回は、maxillaの映像プロデューサー、矢吹によるコラム。
雑誌編集プロダクションでの勤務を経て、現在は広告領域にて映像をプロデュースをする矢吹は、小学生の頃から伝記や古い小説を読むことが好きで、読書が趣味。自分にない新たな知識の源泉を求めて、休日には会社近くの神保町でレアな古本をディグることを続けています。
このコラムでは、矢吹が読書をしている時に気づいたことを引用を通して導き出し、その知識を共有していきます。​​​​​​​
はじめに
学生時代、編集プロダクションにてアルバイトをしていた僕は、ある日手にとった本に衝撃を受け、それ以来「強い言葉=パンチライン」を求めて我流の読書を続けている。

このコラムでは、見つけた中でも特に秀逸な「パンチライン」を紹介していきたいと思う。
初回は、パンチライン集めをするそのきっかけになった、稀代の名評論家・平岡正明氏の言葉にフォーカスする。

当時大学生の矢吹(左)photo by Tetsutaro Ogawa

平岡正明とは?
平岡正明(ひらおかまさあき)
1941年生まれの著述家。1964年「韃靼人宣言」(現代思潮社)にてデビュー。以降、評論活動は1960年代後半から2000年代までにわたり、120冊以上の評論集を著しているがそのほとんどが廃刊となっている。評論のジャンルは広範で、ジャズを主戦場として、政治思想、第三世界における革命、映画、極真空手、河内音頭、浪曲、落語、水滸伝、大道芸など様々なジャンルをクロスオーバーし、数々のパンチラインを残した。彼の評論は、いわゆる「ジャズ的なノリ」で記されることが多く、20世紀の終盤にかけて隆盛した学問の「カルチュラル・スタディーズ」の先駆と評価する論者もいる。2009年に死去。没後10年以上が経つが、「山口百恵は菩薩である」(四方田犬彦 編・講談社)など、著書が復刊され、「平岡正明論」(大谷能生 著・ele-king books)も刊行されている。
①「ジャズ宣言」

初版の『ジャズ宣言』。カバーは熱心に読むうちにどこかへ失くしてしまった。

1967年初夏『ジャズ批評』創刊号にて、鮮烈なテーゼをひっさげてジャズ論評のシーンへ登場した平岡青年。彼のハードコアな論考の端緒はこのパンチラインで始まった。

どんな感情をもつことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、だたしい。ジャズがわれわれによびさますものは、感情をもつことの猛々しさとすさまじさである。あらゆる感情が正当である。感情は、多様であり、量的に大であればあるほどさらに正当である。
(中略)
われわれは感情をこころの毒薬にひたしながらこっそり飼い育ねばならぬ。身も心も智慧も労働も叩き売っていっこうにさしつかえないが、感情だけはやつらに渡すな。他人に与えるな。
(「ジャズ宣言」イザラ書房 p.7)

平岡節たるアジテーションじみた文章は、まるで読む者を重たい鈍器でドスドス殴るような様相。荒々しく熱を帯びた言葉に迫力を感じる、まさに名パンチラインだ。パンクっぽさも感じる。
平岡正明の存在はこの本で知ったが、上記に挙げた「ジャズ宣言」第一文を読んだ瞬間から、彼の論評にどっぷりとハマっていった。
②「山口百恵は菩薩である」

『ジャズ宣言』と同じくカバーは熱心に読むうちにどこかへ失くしてしまった。

表紙裏の「百恵菩薩」のイラストは渡辺富士雄氏、装丁は杉浦康平のゴールデンコンビ。
1ページ1ページが厚く、ずっしり重い。

古本屋の本棚からこの「山口百恵は菩薩である」を手にした瞬間、異様な雰囲気をまとった本だと思った。
あとがきにも書いてあるが、この本が依拠しているリファレンスは、山口百恵のレコードのみである。本人にインタビューせず、映画を見ず、ライブを観ずに書かれているのだ。つまり、平岡が全力で録音された音源を聞き、全力で考え尽くした山口百恵に関する評論なのである。
その論評はまず「菩薩テーゼ」と題される、山口百恵がなぜ菩薩であるかに関して書かれた108の文章群から始まる(「108」なのは、煩悩の数と一致させているからだ)。
加えて、「分析はあとでやる。肝腎なことを叩き出してしまう。(原文ママ)」という前置きが置かれているが、文章を一気に書き上げたような勢いに満ちたドライブ感がある。

六十三 自分の煩悩を歌に昇華させた山口百恵は、他人の煩悩にも鋭敏に反応するだろう。他人の煩悩を自分の悲劇にくり込んで山口百恵はさらに大きくなるだろう。すなわち菩薩である。
(「山口百恵は菩薩である」講談社 p.37)

上記のパンチラインから、普通の歌謡曲論ではないことはお分かりだと思う。
山口百恵を軸として、アジアを中心としたカルチュラル・スタディーズ、ジャズ、政治、マルクス主義、民謡、レゲエなど、あらゆるジャンルをクロスオーバーしている。
正直、境界線を越えて交じり合いすぎている感は否めない。だが、議論の射程がこれほどまで遠くに及ぶ評論家がいただろうかと考えると、平岡以外は思い浮かばない。
平岡正明がフルパワーで大歌手へ捧げた魂の作品。
③「河内音頭・ゆれる」

何年も探した末に手に入れた週刊本。熱心に読むあまり、表紙が破けてしまった。

80年代中盤になって、朝日出版社から「週刊本」という、文庫本よりも少し大きいペーパーバックのような本が刊行された。この週刊本で平岡が論考したのは「河内音頭」という大阪府発祥の盆踊りだった。
河内音頭は、いわゆる民謡とは一風変わった成り立ちで、土着の音頭・民謡、浄瑠璃、祭文といった庶民芸能と、仏教の声明が混ざり合ってできている。また、現代においては、三味線、太鼓、エレキギターやキーボードなどが楽器として使用されているから尚更おもしろい。
そのような「盆踊り」をテーマとして論じる平岡は、「ジャズ」をクロスオーバーさせて展開させていく。その末のパンチラインをご紹介したい。

優秀な歌い手はゆれの感覚を持っているんだ。
(「週刊本7 河内音頭・ゆれる」p.170)

ここで平岡が語っている「ゆれの感覚」というのはジャズに通底するものだ。
また、日本の民謡である河内音頭にジャズに匹敵する底力を見出したのは平岡だけではなく、ジャーナリストの朝倉喬司もその一人であった。平岡や朝倉を中心とした「全関東河内音頭振興隊」は、『すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り』を誘致し、いま現在においても、夏の風物詩として錦糸町・竪川親水公園にて開催されている。
ちなみに、今年度開催については、新型コロナウイルス感染症の感染拡大による影響で中止が発表されている(詳しい情報は公式サイトからご確認を)。
個人的に毎年通っているのでとても残念だが、もし一つ望みが叶うとしたら、問わず語りの平岡がいまのコロナ禍の状況や、河内音頭開催中止について何を言わんとするか、聞いてみたいものである。
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